片づけレベルの見えないライン。 「片づけられない」、のではなく、「片づけない」自分に気づく。
先日、片づけに必要なのは、
「変化をおそれない勇気と、できるという自信」、という記事を書きました。
(コチラの記事。 『片づけに必要なのは、「やる気」ではなく、「勇気」』)
今回は、『片づけレベルの見えないライン。 「片づけられない」、のではなく、「片づけない」自分に気づく。』
を書いてみたいと思います。
例えば、お客さんが来る日、部屋はあっという間にキレイになっていきます。
急に訪ねてきた友人に玄関で、
「ちょっと待ってて」といって、バタバタッと片づける。
「え? そんなこと、したことないけど…」
というかたもいらっしゃると思いますが、
まあそんなこともあるわけです。(笑)
このとき、部屋は本当にあっという間にある程度キレイなり、
短時間の間に、「日常」のキレイレベルを超えます。
ただ、何もない日。
普段それほどきっちり片づいているわけではない、いわゆるズボラさんのお宅には、
「日常」と、「来客用」の片づけレベルの間に、
見えないラインがあって、
ある程度は片づけるけれど、それ以上を超えては片づけない、
ということが日常化されているように思います。
例えば、生ものや食べ物関係を放っておける、
という人は少ない。
生態系のサイクルが勝手に回ってしまう食品を置いておくと、
悪臭を放ち、「散らかっている」レベルでは済まなくなるからです。
もはや「散らかり部屋」を超えた「汚部屋」。
正直まだ、うかがったことがありません。(笑)
あなたの知らない世界、ではありませんが、私にも未知の世界です。
ただ、「うち散らかっているの~」という台詞は、
よく聞きます。(笑)
「いつもきっちり片づいているから、いつでもきて」というお宅より、多い気がします。
ある程度は、いつも片づいている。
あるレベルまではいつも片づけられるのに、
「日常」と「来客用」の間にある、
見えない線は越えられず、きっちり片づけきる、ということをしない。
という散らかりレベルになります。
確かに大変だったり、面倒くさくなると、片づけの達成率は落ちやすいと思いますが、
ただそのこととは別に、多くの人の中には大変だからでも面倒くさいからでもなく、
無意識に自ら、「これ以上は片づけない」という一線があるということです。
よく、「ハチは、巣穴の入口に詰まった物は、なんでも食いちぎって外に出る。
硬い土でも何でも食いちぎれるような強いアゴを持っているのに、
人間に太鼓(たいこ)の中に閉じこめられると、薄い太鼓の皮一枚なのに破ってでてこない。
本当はそれよりずっと硬い物を食いちぎれる実力を持ちながら、
できない、と思ってしまうことで、自らを閉じこめてしまう」
とか、
「オケラは川の半分までは泳ぐけど、半分まで行ったら、
もう自分には渡れないと思ってもどってくる。
本当は渡れる実力があるのに、自らそれをあきらめて、川半分いったら戻ってくる習性がある」
などという話を、聞いたりするのですが、
人にもそういう所は誰でも持っていて、
ただそれに気が付き、自らの意思でそれを超えられるか超えられないか、というところなのかもしれません。
超えられるのに、超えてこない。
本当は「片づけられる」のに、「片づけない」。
今、片づけられない方の片づけには、これを超えようとする、意思が必要なのかもしれないと思います。
毎晩、布団を敷き、朝あげる。
という繰り返しができず、敷きっぱなしにしてしまう、
これは多分、「大変だから」です。
でも、片づけを毎日マメにしなくてはならないほどでもない部屋まで、
基本散らかりっぱなしになっていつまでも放っているのは、「ラインを越えられないから」という可能性も高い。
全てをいっぺんに、とするのも良いですが、
まず、一番片づけやすい部屋の一部(この部分と自分で決めたところ)から、この見えないラインをこえるように、
この部屋だけはキレイにしようと決めて、片づけてみるのもいいかもしれません。